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本の感想を共有する喜びを! 読書会参加に向けて「積読」を解消した

いきなりのお目汚し、すみません! ここは私の部屋であり、机の上に雑然と置かれているのは本。買ったはいいけど読まずに何か月も、いや何年も寝かせてしまっている……いわゆる「積読(つんどく)」です。

本の感想を共有する喜びを! 読書会参加に向けて「積読」を解消した

ざっと100冊近くあるようで、試しに一列に積んでみたところ

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天井に届いてしまいました。こんなの何の自慢にもなりませんね……。

読もう、読もうと掛け声ばかりで、スマホばかりを見てしまう怠惰な日々。どうしたら読書に集中できるのか。何かモチベーションはないものか。そんなことを考えていたところ、パッとひらめきました。あっ! 読書会があるじゃないかと。

 

「読書会」とは

読書には大きく分けてふたつの楽しさがあると思います。ひとつは、新しい知識を得るインプット的な楽しさ。もうひとつは、読書で得た知識を人と共有するアウトプット的な楽しさ。この両方をこなすことで読書は一層、刺激的な体験になると思うのです。

とはいえ「読んだ後に感想を伝える場がない……」とお悩みの方もいることでしょう。その受け皿となるのが「読書会」です。

生粋の読書家から活字に触れ始めて間もない初心者まで、多様な人々が本について楽しく語り合う、このイベント。課題本の感想を語り合ったり、参加者同士で本を紹介し合ったり、会のスタイルは様々です。

実際どんな読書会があるのか、最近mixiで立ち上げられたイベントを見てみましょう。

 

mixiコミュニティ発の「読書会」イベント例

 

■本話会 大阪他

6/1(木) 6/3(土) 6/10(土) 6/11(日)他本 2017年12月28日 大阪府 | 本が好き! | mixi

6/1(木) 6/3(土) 6/10(土) 6/11(日)他本 2017年12月28日 大阪府 | 本が好き! | mixi

[mixi]本が好き! 6/1(木) 6/3(土) 6/10(土) 6/11(日)他本話会 大阪 この本、面白い!みんな読んでみて! この本、全然つまらない!みんな読まないほうがいいぞ! この本、映画化されたけど、配役が間違ってる! こ

⇒「この小説、超オススメ!」「この本、実はつまらない!」「あの漫画、映画化されたけど配役微妙!」など、本に関わる話題を広く語り合う会

 

■人見知りでも大丈夫! 旅する本の読書会

人見知りでも大丈夫! 旅する本の読書会。 2016年6月26日 神奈川県 | 本が好き! | mixi

人見知りでも大丈夫! 旅する本の読書会。 2016年6月26日 神奈川県 | 本が好き! | mixi

[mixi]本が好き! 人見知りでも大丈夫! 旅する本の読書会。  読書会って興味あるけど、上手に話せる自信がない。 行ってみたいけど、開催場所が都会ばっかり。   そんな方にこんなイベントはいかがでしょうか?  参加人数は5名位までで

⇒参加者の自宅に本を配送する形で、回し読みをしていく「ネット読書会」。読んだ本に感想を添えるルールで、自分の推薦本が他者のコメント付きで戻ってくるのがポイント

 

■6/25(新宿)楽しい読書会

【満員御礼】6/25(新宿)楽しい読書会 2016年6月25日 東京都 | 【読書ノ会】 | mixi

【満員御礼】6/25(新宿)楽しい読書会 2016年6月25日 東京都 | 【読書ノ会】 | mixi

[mixi]【読書ノ会】 【満員御礼】6/25(新宿)楽しい読書会 こんにちは♪ Team Shining Dream のまどか・やべっちが主催する読書会です。 いつもありがとうございます。今月は2回目です。 土曜日のお昼前に大好きな本と一

⇒ジャンル問わず「生きていく中で役に立つ」をテーマにした本を勧め合う会。簡単なあらすじ、好きな点、推薦理由、心に残るエピソードなどを語り合う

 

どうでしょう、開催場所もイベント内容も幅広くありませんか? これは一例で、他にも様々なイベントが企画されています。

 

「読書会」を目指し、いざ積読解消!

さて、ここからは個人的なチャレンジです。将来的な読書会への参加に向けて積読をガンガン読もう! そして、人前で話せるよう自分の考えをまとめよう! そんな思いのもと、ひと月かけて積読の解消を試みました。

たった5冊と少ないうえ、考えを上手くまとめられたか分かりませんが、よろしければご笑覧ください。

 

≪読了作品≫
1冊目:朝井リョウ「何者」
2冊目:中田敦彦「芸人前夜」
3冊目:中崎タツヤ「もたない男」
4冊目:森達也「オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」
5冊目:ショウペンハウエル「読書について 他二篇」

 

※以下ネタバレを含みます

 

1冊目:朝井リョウ「何者」

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(C)『何者』/朝井リョウ/新潮文庫刊

1冊目はこちら! 第148回直木賞を受賞した「何者」。著者はデビュー作「桐島、部活やめるってよ」で一躍脚光を浴びた朝井リョウです。

 

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就職活動は生まれた時代の運が大きく影響する。本書刊行の2012年はリーマンショックの影響による就職氷河期。「100を超える企業に応募し、ようやく1社から内定をもらえた」といった苦労話は当時よく耳にしたものだ。そんな苦難の時代に社会を目指す学生たちが傷つけ合う姿を本書は描く。

思い返せば12年前、私が就活をしていた2004年も「就職氷河期」と呼ばれていた。就活生同士の批判も日常茶飯事で、「ヤバそうな会社だから止めたのに、あいつ聞く耳を持たないんだよ…」とか「給料だけで会社を選ぶ奴ってバカだよな」といった声は、そこかしこで耳にした。人生を左右する重い決断だ。気に食わない就活スタイルを見ると、たとえ仲間であっても文句の一つも言いたくなる。

こんなどこにでもある就活中のすれ違いが、この物語では残酷な傷つけ合いにまで発展した。その引き金となったのがSNSだ。

己の価値をアピールし、企業に評価してもらうことが就活の本質ならば、ツイッター普及以降の若者たちは、その足慣らしを日常生活でこなしているように見える。

“リア充アピール”などと呼ばれる投稿は、その最たる例だろう。彼らは競い合うように自己アピールを続け、そのチキンレースは「就活」という舞台で一層激しさを増していく。

内定報告や人脈自慢、鋭い視点アピール…。就活生は様々な方法で自己顕示を試みる。

本書にも、意識の高い学生やカブれた学生が登場し、それぞれのキャラに応じて自己アピールをする。その一方で、そうした学生を冷ややかに見つめ、冷静に振る舞おうとする学生もいる。

彼らは志向性は異なるが、結局のところ「見せたい自分」に拘っている点で似た者同士だ。当然、相手の自意識が鼻につくし、見れば見るほど嫉妬心や嫌悪感が生まれてくる。

こうしたライバルたちの動向を目にする頻度は、SNSの普及によって大きく増加した。同級生と会って情報交換をすることがメインだった私の時代と違って、今は四六時中、就活のプレッシャーに晒され、ライバルたちへの嫉妬、嫌悪感、ストレスが増幅されていくのだ。

溜め込んだ負の感情を上手くコントロールできれば争いは避けられる。だが、タチの悪いことに、「他者からの見え方をコントロール出来ている」という驕りが彼らにはある。SNSが引き出す強烈なアピール願望は、リアリティのある想像力を大きく鈍らせてしまう。

 

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本書は「見せたい自分と、人から見える自分のギャップ」を何度も描く。自分の都合や願望を脇に追いやり、現実的な自己評価を下すことの難しさ。ネットで無邪気に自己アピールすることの恐ろしさ。この二つを嫌というほど思い知らされる。

本書読了後、ツイッターやフェイスブックを止めてしまおうか本気で悩んだ。悩んで、悩んで、悩み抜いた末、結局いまも利用し続けている。「自分は何者でもない」と理解して生きてきたつもりだったが、その自覚が全く足りていないことに改めて気づかされた瞬間でもあった。

 

 

2冊目:中田敦彦「芸人前夜」

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(C)『芸人前夜』/中田敦彦/ヨシモトブックス刊

続いてはこちら! 「芸人前夜」です。中田敦彦といえば「PERFECT HUMAN」の大ヒットで音楽方面でも注目を集めていますが、今回は小説。活字の世界であっちゃんの別の一面が見られるのでしょうか。

 

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本書はオリエンタルラジオの中田敦彦による自叙伝的小説。「NSC(吉本興業主催の芸能人育成所)」での活動を含む大学時代の出来事をメインに、自身の足跡を事実に即したつもりで記したものだという。といっても、都合の良い“武勇伝”に終始しているわけではない。若気の至りの痛々しさや、むき出しの野心などを赤裸々に綴っている。

本書の帯には「あっちゃん、かっこわるい!!」というテキストが踊る。デビュー前の中田は“PERFECT HUMAN”どころか冴えない青年だった。本人がメディアでよく語っているのでご存知の方も多いだろう。

それを象徴するシーンがある。中田と恋人(NSCの同期)との揺れる関係を描いた場面だ。

容姿や性格、聡明さなど、人の長所は様々だが、芸人を夢見る青年たちにとって是が非でも認められたいのは「面白さ」。これが女性も例外ではないところがミソだ。

恋人の容姿に惚れた中田と、「面白いね」という褒め言葉を求めていた彼女は、徐々にすれ違っていく。いつしか彼女の心は離れ、中田の恋は終わりを告げる。自分が全く面白さを認めていなかったNSCの同期に略奪されるという形で……。まさに「あっちゃん、かっこわるい!!」である。

恋人と向き合う努力を怠った中田は振られるべくして振られた。別れる直前なって初めて相手の本心に気づくようでは遅すぎる。ただ、もしかしたら、中田は彼女の本心に“気づけなかった”のかもしれない。

芸人の世界において「面白さ」は崇高かつ不可侵な価値。本書で描かれるNSC生同士の諍いは、自らが信じる面白さを巡る、ある種の宗教対立のように映る。そんな自分に嘘を付けない領域だからこそ、恋人に面白さを感じていなかった中田は、無意識にその話題を避けていたのではないだろうか。

恋人なんだし、彼女の面白さを見つける努力をすればいいのに--。外野は無責任にそう思ってしまう。だが、それが自然に出来る人は、きっとこの世界で成功しない。自分の中の「面白い」という感覚を裏切ることは、芸人としての「死」と同義なのだろう。

 

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さて、中田の芸人への歩みをひも解く上で、相方・藤森慎吾に触れないわけにはいかないだろう。若き日の“チャラ男”の姿も本書の大きな見所である。

自分の信じる笑いを追い求め、芸人志望の若者たちが日々しのぎを削るNSC。ライバルたちを蹴落とそうとする気概が求められる中で、どうにもユルいのが藤森だ。

おそらく肯定的な意味で軽いキャラとして描かれているのだろう。NSCを訪れたB&Bの島田洋七を見て「誰?」とつぶやくシーンなどは相当パンチがある。

だが、何事も王道が成功の近道とは限らない。オリラジの出世作となった「武勇伝」は、従来の漫才の枠を飛び越えた“発明”だ。中田自身も、セオリーやマーケティングから導かれるのは「すでに世にあるもの」であり、それらを外れたところから新しい価値が生まれると考えている。

それは芸人のあり方にも当てはまるはずだ。藤森のような異端が新しい芸人像を見出だし、コンビを成功に導くことがあってもおかしくない。本書で描かれるオリラジ二人のコントラストは、王道やセオリーに対する中田のアンチテーゼの表れのようにも思える。

 

 

小休止

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作品は積読の中からランダムに引き抜いています。崩れないように、そっと、ジェンガのごとく……。

さあ、積読解消、まだまだ続けます!

 

3冊目:中崎タツヤ「もたない男」

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(C)『もたない男』/中崎タツヤ/新潮文庫刊

続いてはこちら! 中崎タツヤ著「もたない男」です。「ビッグコミックスピリッツ」で長年連載し、手塚治虫文化賞・短編賞を受賞した著者の代表作「じみへん」のファンという方も少なくないでしょう。独特の中崎ワールドに期待して手に取った一冊です。

 

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漫画家・中崎タツヤは、極端に物をもたない人物として知る人ぞ知る存在だ。かつて「ビッグコミックスピリッツ」の公式サイトに仕事場の写真を載せたところ、漫画家の部屋とは思えぬ閑散ぶりに読者が驚いた(気になる人はググってください)。本書でその真意が明かされている。

著者はもともと必要以上に物をもたないタイプのようだが、物欲は強いらしい。気に入った物は積極的に購入し、使ってみて要らないものは容赦なく捨てる。身の回りの物も必要性が失われた瞬間に処分する。そんなこんなで周りから物が消えていく。

つまり本書の「もたない男」とは「捨てる男」のこと。その捨て方がとにかく凄まじいのだ。

いくつか例を紹介しよう。まずはボールペンの話。

ボールペンのインクが減ってくると、減った分だけ長いのが無駄な気がしてきます。ですから、ちょっと書きづらくなるんですけれど、インクが減るごとにボールペンの本体も短く削っていきます。

(引用:中崎タツヤ「もたない男」新潮社、2015年、p35-36)

同じ発想は書籍にも向けられる。

本を買っても読んだら捨てます。というか、読むそばから読み終わったページを破って捨ててしまうこともありました。

(引用:中崎タツヤ「もたない男」新潮社、2015年、p76)

椅子の場合。

以前の椅子には背もたれが付いていましたが別に寄りかかる必要もありませんので、そのうちにノコギリで切りとってしまい、結局捨てて、もとから背もたれの付いていない丸椅子に買いかえました。

(引用:中崎タツヤ「もたない男」新潮社、2015年、p17)

どうだろう。「物を捨てる」という話から想像していたことと、だいぶかけ離れていないだろうか。

とにかく徹底的に無駄を削ぎ落としていくのが中崎流。物一体を豪快に捨てることもあれば、パーツのみのこともある。これまでウォレットやPC、バイク、Suicaなど、幅広く物を処分し、しまいには自著も燃やして、焼き芋を焼いていた。

 

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著者の過剰な無駄嫌いを「変わり者の性癖」と片付けてしまうのは簡単だろう。だが実は、著者は自身の鋭いセンサーでもって日常生活に潜む落とし穴を感知しているのかもしれない。そう思わされたのが次のエピソードだ。

一〇〇円ショップで二個一組の糊を買って、すぐに一個捨てますが、これは単品で糊が売っていないからです。

(引用:中崎タツヤ「もたない男」新潮社、2015年、p184)

せっかくだからストックしておけば良いのでは? と思うなかれ。この話は、昨今の買い物が知らず知らずのうちに必要ない物を押し付けられる構造にあることを示唆している。

著者はファーストフードでも似たような経験をしている。

ハンバーガーとコーラを単品で買おうとしたところ、ポテト付きのセットのほうが安いことに気づく。著者はポテトが苦手なため、「セットで注文。ポテトは不要」と伝えるが、店員に断られてしまう。ポテトは客側で処分してほしいというのだ。

ここで著者は悩む。出費は抑えたいが、食べ物を捨てることには抵抗がある。さてどうしよう、と。

特に客側が損する仕組みではないし、普通はここで迷ったりしない。けど、冷静に考えると確かにおかしい。著者の提案も店側が損する内容ではないのに、なぜ頑なに拒否するのか? こんな違和感、本書を読むまで感じたことはなかった。

著者は自身の「無駄嫌い」が一般感覚からズレていることを自覚している。したがって、本書は読者が著者の「非常識」を楽しむ作品と言えるだろう。

ただ、ふとした瞬間、「常識」という安全地帯から眺めていたはずの自分が、実は大きな仕組みの中に取り込まれ、自由を奪われ、知らぬ間に 「無駄」との付き合いを引き受けてしまっていることに気づかされる。

意図したことかは分からないが、著者が提示したテーマは想像以上に深い。

 

4冊目:森達也「オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」

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(C)『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』/森達也/KADOKAWA刊

続いてはこちら! 森達也「オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」です。佐村河内守氏に密着したドキュメンタリー映画「FAKE」が大きな反響を呼んでいる森監督。「オカルト」というグレーなジャンルをどう抉り取るのでしょうか。

 

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皆さんは「オカルト」というと何を思い浮かべるだろうか。「ビートたけしのTVタックル」で火花を散らしたUFO研究家・韮澤潤一郎氏と物理学者・大槻義彦氏の論争か。超能力者によるスプーン曲げか。はたまた「おわかりいただけただろうか」でおなじみ心霊現象か。

本書はドキュメンタリー作家として知られる森達也がオカルティックな事物について、関係者インタビュー、体験レポート、専門家を交えた実験等を織り交ぜ、その本質に迫ろうとする力作だ。

扱う題材は10種超。恐山のイタコの実力を試したり、無人なのに開閉する自動ドアの実態を検証したりするなど、オカルトファンならずとも気になる話題が並ぶ。

著者はどの題材も肯定・否定への誘導はせず、取材で起きたありのままを綴っている。そのため要所要所で録音テープを起こしたような生々しい空気が流れる。取材中、思うような成果が得られないことも少なくない。それがかえってリアルというか、オカルトが容易に近づけない領域であることが一層強く印象付けられる。

 

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オカルトには多種多様な事物が含まれるが、全てを一緒くたにして“眉唾もの”と思われがちだ。だが、実際は事物によって性質も異なるし、解明に必要なアプローチも違ってくる。

例えば「超能力」。超能力は100年以上も前から研究が進められながらも、今なお非科学的な存在と考えられている。同じ条件下であれば「いつ」「誰」がやっても同じ結果が出ることを要求される科学の世界において、ほとんどの超能力が「再現性」でつまづく。超能力者の精神的なコンディションに成否が左右され、結果が安定しないためだ。

それゆえ、彼らは今なおグレーな立場に甘んじている。霊視能力者・秋山眞人は自身を「イロモノ」と言い表すが、科学的なお墨付きがもらえない限り、彼らは世間から真っ当な存在として認めてもらえないのかもしれない。

では、超能力をいついかなる時も繰り出すことが出来ない限り、その存在を否定していいのだろうか? そんな疑問に対し、本書に登場するミステリーハンター・佐藤健寿の指摘にはハッとさせられた。

例えばスポーツ選手の成績や歌手の音程、料理人の味付けなどには常に揺らぎがあるように、人間の意識や行為に揺れが生じることは当然のことなのに、こと超能力に関してだけその曖昧さがまったく許容されないこの現状は、誠実な能力者にとっては大きな不幸であるといえるでしょう。

(引用:森達也「オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」角川書店、2012年、p51-52)

野球で言えば、一流打者でも打率3割。7割は失敗する。人間だから当然だ。それと同様に、超能力も物理現象ばかりにフォーカスし、人間の行為であることを忘れてしまうと本質を見誤ってしまう。

本書には恐山のイタコ、先に紹介した秋山眞人、スピリチュアル・ワーカーの荒川靜、スプーン曲げの清田益章らが超能力を有するであろう人物として登場し、実験やインタビュー、実技を行っている。結果についてはここでは触れないが、佐藤健寿の指摘を踏まえて読むと景色が変わって見えることは指摘しておきたい。

 

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続いて、オカルト界の定番テーマ「怪奇現象」について。まずは著者のスタンスから。

怪異だの心霊だのと呼ばれる現象のほとんどは、勘違いかトリックの類だと思っている。ただし「基本的には」だ。すべてではない。勘違いやトリックだけでは説明しきれないことが時おりある。

(引用:森達也「オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」角川書店、2012年、p159)

本書には「玉石混淆」という言葉が頻出する。大量の「石」の中に「宝玉」と思しきものが紛れているから、著者はオカルトの存在を否定も肯定もしない。「存在するかどうか分からない」という曖昧なスタンスを取っている。

それでも否定論者からすれば、存在の可能性を信じる証拠を示してほしいところ。ただ、残念なことに多くの場合、肯定派はそれを持っていない。

超常現象の体験談には「カメラを取りに戻ったら消えていた」といった話が多いというが、オカルトはその存在を信じる者の前に突然現れ、その姿を捕らえに行こうとすると、あっという間に消えてしまうため証拠が残せないらしい。

著者に言わせれば、オカルトは「人に媚びる(ように突然現れる)」と同時に「人目を避ける」のである。

私にも似たような経験がある。10年ほど前のことだ。富士の樹海を訪れたとき、数メートル先に佇む友人を撮影しようとしたところ、気を失いかけた。

その後、我に返って再びカメラを構えたが、なぜか何度押してもシャッターが切れない。そしてまた気を失いそうになる。不審に思った友人が私のもとに駆け寄ってくると、再び我に返り、カメラも正常に動き始めた。

この不可思議な体験を証明するものは何も残っていない。誰かがビデオカメラでも回していない限り、状況証拠など残しようがないのだ。

ただ、体験自体は今でも鮮明に覚えているし、錯覚などではないと確信している。とはいえ、再び樹海で撮影を敢行したとしても、同じ経験ができると思えない。あくまで直感だが、偶発的な事象を意図的に引き起こすのは難しいと感じるのだ。

この「オカルトに接近することの難しさ」については、専門家の間でも様々な意見がある。

本書に登場する科学者の一人は、“オカルトが人目を避ける”などと擬人化する考え方に疑問を示す。

例えば、不可解な声が入り込んだ不気味な映像を見たとき、“誰かが叫んでいる”と考えてしまう人が多いだろう。

これは、我々が日常的な価値観で状況を理解しようとして、「声を発している誰か」という存在しない要素を勝手に持ち込んでしまったことによるものらしい。科学者は「声」を「音」として捉え、人間社会の価値観は持ち込まないそうだ。

本書には、こうした学者の見解が数多く紹介されている。読者は自分がいかにオカルトを一面的に見てきたかを痛感させられるだろう。そして、オカルトを解明するどころか、この世界の複雑さを改めて実感し、途方に暮れるような読後感に襲われるはずだ。

各章の終わりに取材を終えた著者の言葉が綴られている。かなり“ぼやき”が多い。取材を通してオカルトの一端に触れたであろう著者でさえ、このテーマとどう向き合っていいか迷っている。

 

 

5冊目:ショウペンハウエル「読書について 他二篇」

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(C)『読書について 他二篇 』/ショウペンハウエル/岩波書店刊

続いてはこれ! ショウペンハウエルの「読書について 他二篇」です。著者については、高校の「倫理」の授業で習ったという人も多いのでは? 哲学書って難しい印象がありますが、意外にイケるという話もちらほら耳にします。そこで、難しかったら止めようという軽い気持ちで購入してみましたが……さて、中身はいかに。

 

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偉人が多読の方法を教示する本。そう思って読み始めたが、全く違った。結論から言う。ショウペンハウエルの主張は「本はたくさん読むな」である。知の巨人からの予想外のお達しだが、理由を知れば納得する。早速、内容を紹介しよう。

一般論として、本を読めば読むほど知識が増えると考えられている。だが、その知識は本当に使えるものなのか。筋肉のように自由に動かし、広く活用できなければ、ただの「情報」ではないか。そんな疑問に対し、ショウペンハウエルはある例えを用いて説明する。

読書で生涯をすごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。こういう人は報告すべき材料をいろいろ持ち合わせているが、その土地の様子についてはまとまった知識も、明瞭な基礎的知識もまったく欠いている。

(引用:ショウペンハウエル「読書について 他二篇」斎藤忍随訳、岩波書店、1960年、p13)

このネット時代、歩くウィキペディアのような人に出会うことがあるが、そのとき感じる違和感の正体はまさにこれだろう。物事を表面的に知っているだけで、生かす術は持ち合わせていないのである。

では、生きた「知識」とはどうやって手にするのか。その答えは「思索」にあるらしい。

自らのアンテナに引っかかった事物について体験や比較を通して思索を深めた結果、オリジナルの知見を獲得する。これこそが使える「知」であり、著者が絶対的な価値を説いているものだ。

思索を通して得た「知」が生きた手足なら、受け身の読書で得た「知」は義手義足。自分の血肉にならないどころか、他人の思想体系という“異物”が入り込み、自身のそれが乱される恐れもある。

だからこそ「多読に走りすぎてはならない」というわけだ。

ならば本は読まないほうがいいのか……というと、そうとも言い切れない。要は取り組み方の問題だ。

単なる情報収集の受け身な読書だと、書き手の思想体系が脳内に入り込み、自ら思索する姿勢を放棄してしまう。要は他人の考え方に乗っかって楽をしてしまうわけだ。これでは思考停止に陥ってしまう。

それを防ぐには、「先に思索や洞察を重ね、その後に読書」という順序で知を追求するのがいい。

自分の思索や考察が先にあって、それを深めるための「検討材料」「比較材料」として本を活用すれば、他人の思考体系に侵されることなく、独自の知見が深まっていく。

こうした姿勢で本と向き合えば、自然と読書数も限られてくるのだろう。

 

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ここからは著者が指南する読書の具体的なポイントを紹介する。一例として次の3つを取り上げた。

1・新刊書は読まない
2・読むなら古典
3・重要な書物は二度読むべき

「1」については、先ほど述べた“読書の弊害”以前の話かもしれない。著者曰く、新刊書のほとんどが金目当ての無能な著述家たちが、無思索な内容を書き散らしたものだという。

それは“思索の証”とも言える文体を見れば明らかで、彼らは無能、無思索を隠蔽すべく、不自然で難解な言い回しを駆使したり、あえて話を理解しにくくする複雑な文章構成を用いたりする。

こうして「つまらないことをわずかしか考えていないのに、はるかに深遠なことをはるかに多量に思索した」ように偽装しているというわけだ。

一方、思索を深めた者たちの文体は総じて独創性に満ちている。自らの知見を確実に届けようとすべく、筆致も極めて明瞭。これぞ物書きとしてあるべき姿勢なのだろう。

あえて難解な言葉を使うおうとする無思索の作家たちを、著者はこんな言葉で諭す。

大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。

(引用:ショウペンハウエル「読書について 他二篇」斎藤忍随訳、岩波書店、1960年、p69)

ちなみに大作家についても、無名時代の作品ほど金銭目的で書かれていない良書が多いらしい。19世紀ドイツを舞台にしたこの指摘は、200年を経過した現代にも通じる教訓だろう。

さて、新刊書を避けるとしたら、必然的に読書すべきは過去の良書ということになってくる。中でも「古典」と呼ばれる名著を著者は勧める。時代を超えても古びぬ普遍性に富んだ書物こそ万人が読むに値する、との考えである。

精神のための清涼剤としては、ギリシア、ローマの古典の読書にまさるものはない。

(引用:ショウペンハウエル「読書について 他二篇」斎藤忍随訳、岩波書店、1960年、p139)

さらに、重要な書物は続けて二度読むべきだと著者は指南する。

二度目になると、その事柄のつながりがよりよく理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。

(引用:ショウペンハウエル「読書について 他二篇」斎藤忍随訳、岩波書店、1960年、p138)

本を読み返すたびに新たな気づきを獲得し、理解も深まる。これは誰しも経験があることだろう。

 

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ショウペンハウエル流の読書を理解したところで、最後に疑問を1つ解消して本書のまとめとしたい。

「先に思索、その後に読書」という順で知識を得ようとしたとき、往々にして起こりがちなのが、苦心の末に導き出した考えが既に名著に整然とまとめてあった、という事態である。「考え損だった…」「時間の無駄だった…」と激しい徒労感に見舞われそうで、想像するだけでも疲れてくる。

だが、ここで落ち込む必要はないらしい。一見、自分の考えが他者のそれと類似していても、異なる思想体系から生まれたものであり、そのオリジナリティに疑いの余地はないというのが著者の見解だ。

これは非常に痛快な話ではないだろうか。何か持論を展開するたびに、「君の考えは数百年前に偉人が言っているけどね」などと歩くウィキペディアたちがしたり顔で口を挟んでくるうざさは尋常ではないが、ショウペンハウエルは、そんな的外れな指摘にハッキリNOを示してくれたのである。

そうは言っても、現代社会では「誰が言うか」が重要視されている。主張が類似した場合、偉人や影響力のある人物のパクリと見なされるのが現実だ。

だからといって発言力のある「何者」かになろうとして、故意に主張を過激にしたり、捻じ曲げたりするようでは、せっかくの思索が報われない。「周囲の評価なんかに惑わされるな。熟考の末に辿り着いた知見なら堂々と主張すればいい」。ショウペンハウエルなら、きっとそう言うだろう。

他人の意見に影響されやすかったり、自分の主張に自信がなかったりする人は、ぜひ本書を読んでほしい。価値観が揺さぶられ、自分の考えの尊さを自覚するはずだ。

 

おわりに

大変長くなりましたが、以上で終わりです。1つでも読んでくださった方、ありがとうございました。

ここで取り上げた本を既に読んでいる方は、きっと私と異なる感想をお持ちだと思います。

けれども、共感だけが全てではありません。自分の視点と異なる角度から光が当たり、作品の見え方がガラリと変わることもあります。それが本の感想を伝え合う醍醐味ではないでしょうか。

皆さんも読書後、ご自身の思いを誰かに伝えてみませんか。mixiでは様々な読書会が開催されています。本の話ができる「仲間」と「場」が揃っていますよ。

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